「生きる意味」が分からない・・・。
それは時として、「死」を招く危険なものです。
そんなときには、この優しい物語「ちょっと今から仕事やめてくる」が、前に進むヒントを与えてくれます。
そこでこの記事では、この作品を、ユダヤ人の精神科医ヴィクトール・E・フランクルの哲学を交えつつ読み解いていきたいと思います。
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「生きる意味」の見えない時代
「生きる意味」を見失うと・・・
この物語の主人公青山隆は、印刷関係の会社に勤める入社1年目のサラリーマンです。
就職活動に失敗を重ねた末に、どうにか内定をもらったこの会社で働いています。
この会社は典型的なブラック企業であり、上司・山上部長からのパワハラや長時間のサービス残業で、主人公は心身ともに衰弱し、「死」が頭によぎるようになります。
主人公は、なぜそこまで思いつめてしまったのでしょうか。
それは、「生きる意味」を見失ったからだと考えます。
ユダヤ人の精神科医ヴィクトール・E・フランクルは、ナチスの強制収容所に収容されるという過酷な体験を綴った本「夜と霧」の中で、人間は「生きる意味」を見失うと、精神や生命が弱っていき、死に至ることもあると述べています。
実存的な欲求不満とは
フランクルは、1977年の著書「生きがい喪失の悩み」で、次のように述べています。
「どの時代にもそれなりの神経症があり、またどの時代もそれなりの精神療法を必要としています。事実、私たちは今日ではもはやフロイトの時代におけるように、性的な欲求不満と対決しているわけではなくて、実存的な欲求不満と対決しています。」
(ヴィクトール・E・フランクル 「生きがい喪失の悩み」 中村友太郎訳)
つまり、時代の移り変わりのなかで、より実存的な欲求不満が現れていると述べているのです。
この実存的な欲求不満とは何でしょうか。
まずは、「実存」の意味を考えていきます。
「実存」とは、実際にこの世に存在すること、つまり存在という意味です。
「実存」は、「本質」と対比させると分かりやすくなります。
「本質」とは、それは何のためにあるのかということ、つまり目的という意味です。
例えば、ハサミという道具を考えてみましょう。
ハサミは、物を切るという目的(=本質)のために作られて存在しているものです。
従って、ハサミは目的(=本質)が存在より先に立っていることになります。
ところが、人間の場合はそうではありません。
何か目的(=本質)を持って生まれてきたわけではなく、存在が先に立っていることになります。
目的(=本質)は分からないけれど、そこに存在してまったが故に、時に人間は「生きる意味」を見出せないことに不安を感じるのです。
これが、「生きる意味」を見出せないという欲求不満、つまり実存的な欲求不満ということなのです。
もう限界、だから「生きる意味」が欲しい
好きを仕事にできるのか
自分の好きなことを仕事にしている人はどのくらいいるのでしょうか。
そもそも、20歳前後で、人生をかけてもいいと思えるような進路が固まっている人はほとんどいないと思います。
主人公のように何社も受けて落とされるということを繰り返して、「自分の好きな仕事ではないけれど、世間体も考えて、何とか受かった会社でお世話になる」という人が大半なのではないでしょうか。
それでも、最初は好きな仕事では無かったけれど、次第に会社の上司や顧客から評価されて仕事が楽しくなり、順調なサラリーマン人生を送ることができれば、「生きる意味」など探さなくても生きていけるでしょう。
マズローに異を唱えたフランクル
ここで、マズローの欲求段階説を考えてみます。
低次の欲求から順に並べると、「生理的→安全→社会的→承認→自己実現」の5段階の欲求となっていて、低次の欲求が満たされると、1段階上の高次の欲求に向かっていくという考え方です。
フランクルはマズローの考え方に異を唱えており、著書「生きがい喪失の悩み」の中で、人は低次の欲求が満たされないような極限状態でも、いや、それだからこそ、高次の欲求である「生きる意味」を求めることを強く望むのだと述べています。
本作に出てくる上司の山上部長は、ノルマの未達成や顧客からのクレームを理由に、主人公を同僚の面前で大声で罵倒したり、土下座を強要するなど、激しいパワハラ行為を行っています。
主人公は、好きでもない仕事なのに、パワハラ被害に加えサービス残業までさせられ、心身ともに衰弱していきます。
まさに、低次の欲求が満たされていない状態です。
そんな状態だからこそ、なぜこの仕事をやっているのか、「生きる意味」は何なのかということを、必死で考えたのでしょう。
それでも、仕事から受ける精神的ストレスは無くならず、ついに「生きる意味」さえも見失ってしまったのではないでしょうか。
「生きる意味」を見失ったときには
発想を180度転回する
それでは、「生きる意味」を見失ってしまった人はどうすればいいのでしょうか。
自分の思い描いた人生設計が崩れ、ただ会社に行って上司に怒鳴られるだけの毎日では、人生に期待を持つことができなくなってしまうでしょう。
そんな時は、発想を転換するのです。
フランクルは、こう言っています。
「それは、物事の考え方を180度転回することです。その転回を遂行してからはもう、『私は人生にまだ何を期待できるか』と問うことはありません。いまではもう、『人生は私に何を期待しているか』と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。」
「私たちは問われている存在なのです。」
(ヴィクトール・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」)
つまり、我々が人生に対して「生きる意味」があるのかと問いかけるのは誤っている、人生こそが我々に問いかけをしているのだ、ということになります。
自分を超えた何か、その問いかけに応え続けていくプロセスこそが、人生であるということですね。
人生から問いかけられているということは、「誰か」や「何か」が自分を待っているということでもあります。
人生は自分に何を問いかけているのか
フランクルのこうした考え方は、強制収容所での過酷な日々に絶望していた多くの人々に、生きる力を与えました。
あるとき、全てに絶望して生きることに何も期待が持てなくなった2人の囚人が、フランクルの元に相談に訪れます。
フランクルは、その2人の囚人に、あなたのことを待っている「誰か」がいないか、あるいは、あなたが実現するべき「何か」がないかと問いかけます。
囚人の一人は、外国で自分のことを待っている一人娘のことを思い出し、もう一人は、自分は科学者で、書きかけの著作の原稿があることを思い出しました。
こうして、二人は人生においてなすべきことを思い出し、再び生きる希望を見つけたのです。
このように、フランクルは、ものごとを今までとは違った角度から捉え直すことを提唱しています。
「私の人生に意味はあるのか」などと、自分の視点から考えるのではなく、
「自分の人生でこのような出来事が起こったのは、いったい何の意味があるのか」
「このことを通して、人生は自分に何を問いかけているのか」
といったように、人生という視点からものごとを考えるのです。
人生で起きてくる出来事を見つめ、それらが自分にとって持つ意味を考えていくようにするのです。
この過程を通して、自分が人生で本当になすべきことを見つけ出していくのです。
人生は誰のためにある?
この物語では、友人の「ヤマモト」が、心が折れて自ら命を絶とうとした主人公に向かってこう問いかけます。
「人生は誰のためにあると思う?」
この問いかけは、「ヤマモト」という友人の姿を借りて、主人公の人生そのものが主人公に対して投げかけた言葉ではないでしょうか。
この言葉で、主人公は自分を待ってくれている人、そして自分が本当にやるべきことに気づき、再び生きる希望を見出していくのです。
フランクルもこう言っています。
「各個人がもっている、他人によってとりかえられ得ないという性質、かけがえないということは、―意識されればー人間が彼の生活や生き続けることにおいて担っている責任の大きさを明らかにするものなのである。」
「待っている仕事、あるいは待っている愛する人間、に対してもっている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することが決してできないのである。」
(ヴィクトール・E・フランクル 「夜と霧」 霜山徳爾 訳)
自分を待っている何か、あるいは、自分を待っている誰か、そのことを意識した人間は、決して自分の生命を絶つことがないのです。
心から打ち込める仕事や、家族と過ごす時間、その「何か」や「誰か」が、自分が人生をかけてなすべきことであり、生きる希望となっていくのです。
まとめ:人生は、人間に絶望しない
この記事では、映画「ちょっと今から仕事やめてくる」をフランクル哲学で読み解いていきました。
フランクルは、「人間が人生に対して絶望することはあっても、人生が人間に対して絶望することは無い」と言っています。
人生は絶えず問いかけを続けてくれるのです。
その問いかけに応えていくことが、いつかは本当の「生きる意味」を実感することにつながっていくのではないでしょうか。
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