日本陸軍軍人の八原博通大佐は、沖縄戦の第32軍の高級参謀です。
同調圧力の強い日本陸軍という組織の中で、自分の信念を貫き合理的な作戦を実行しようとした人物です。
その生き方は、組織の中で生きる現代のサラリーマンにも深く共感できるのです。
後編では、実際の沖縄戦の推移を見ていきます。
前編はこちら↓
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沖縄戦の推移
米軍上陸
1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸を開始し、その日のうちに約60,000人を揚陸し、日本軍の北・中飛行場を確保します。
上陸日当日の日本軍の抵抗があまりにも少ないため、米軍は疑心暗鬼に陥っています。
ここまでは第32軍・八原大佐の思惑通りなのですが、中央の各方面からの批判が殺到するようになります。
大本営、第32軍の直属上級司令部である第十方面軍、連合艦隊から、第32軍に対して「攻勢をかけろ」という内容の電報が続けざまに入ってきます。
まるで第32軍が臆病で腰抜けだとでも言わんばかりです。
第32軍の内部でも、そのような同調圧力に支配されていきます。
幕僚全員を集めた作戦会議でも、各方面の要請に従い、「攻勢に打って出るべし」という意見が大勢を占めるようになります。
空気に抗った合理主義者
圧倒的な火力を誇り海や空からも強力な支援を受けられる米軍に対し、日本軍が攻勢をかけたとしても、やる前からその結果は見えています。
八原大佐は、たった一人で頑強に抵抗しました。
「ここ数か月間、心血を注いで構築した陣地を捨てて裸で突撃しても、敵の圧倒的な火力の前にはまさに自殺行為にほかなりません。」
「大本営や方面軍からの電報が、純然たる攻勢命令であるなら別です。よし命令であっても、それが国家国軍にとって不利であることが明瞭なれば、独断行動することは、本来の統帥上、許されているはずです。」
(沖縄 悲痛の作戦 稲垣武)
八原大佐は「独断も許される」とまで言い切って、第32軍が攻勢に出ることに反対したのです。
そうこうしているうちに、米軍は各地で第32軍の築いた強力な防御陣地にぶつかり、大きな損害を受けることになります。
4月10日過ぎまでの両軍の損害は、日本軍の死傷者2,279名(戦死1,174名)に対し、米軍の死傷者は2,600名(戦死475名)と、米軍の損害が上回っていました。
各地で日本軍は健闘していたのです。
飛行場を奪還せよ!
東京の大本営は、飛行場の奪還にこだわっていました。
「何よりも飛行場を保持すべきだ」という考えに取り憑かれ、北・中飛行場があっさりと奪われたことに歯がゆい思いをしていたのです。
これに対して八原大佐は合理的な思考を持っており、自軍にまともな航空戦力がない状況では、飛行場を確保していても無意味だと考えていました。
これまでのサイパンやフィリピンの戦いにおいても、米軍に飛行場が奪われると、奪還のための部隊を送り込んでは大損害を受けて自滅するということを繰り返してきました。
それでも大本営の方針は変わらず、第32軍の長参謀長も4月12日に攻勢をかけることを命じ、八原大佐も仕方なく応じます。
この攻勢の計画は、敵に夜襲をかけて敵陣深くまで浸透し、北・中飛行場まで進出するというものです。
日本軍伝統の銃剣突撃戦術の思想が色濃く表れています。
この夜襲は米軍の照明弾に捉えられ、猛烈な放火を浴び、1個大隊の全滅と2個大隊の大損害を被るという失敗に終わりました。
この失敗を受け、第32軍は再び戦略持久の方針へ転換し、嘉数高地の戦いなど各地で米軍に多大な損害を与えていきます。
戦略持久の基盤を失う
第32軍はよく持ちこたえ、米軍に消耗を強いていましたが、第32軍の戦力もジリジリとすり減っていきました。
「増援の期待できない第32軍は、いずれ戦力が枯渇し玉砕の時を迎える」
このように悲観的な空気が第32軍の司令部を包むようになります。
戦力のあるうちに決戦に打って出ようという攻勢論が再び浮き上がってくるのです。
そして4月29日に、第32軍司令部は温存していた戦力を中心として米軍に正面から総攻撃をかけることを決定します。
当然、八原大佐は猛反対しますが、長参謀長の説得で折れることになります。
いくら八原大佐がエリートで参謀という特殊な立場であっても、上司である長参謀長の命令に逆らうことはできません。
映画「激動の昭和史 沖縄決戦」では、丹波哲郎さん演じる長参謀長が「八原君、頼む。俺と一緒に死んでくれ!」と頼み込むシーンがとても印象的です。
要するに、「上に忖度してくれ」ということなんですね。
これでは合理主義者もどうしようもありません。
5月4日、日本軍は火砲の支援を伴う総攻撃を行いますが、強力な火力の米軍に正面から突撃をしたため、たちまち撃破されてしまいます。
第32軍の戦力は、第62師団が1/4、第24師団が3/5、独立混成第44旅団が4/5まで減少し、壊滅的な損害を受けることになります。
砲兵隊も13,000発以上と備蓄していたほとんどの砲弾を打ち尽くし、戦略持久の基礎を失うことになってしまいます。
この総攻撃の失敗によって、その後の戦闘は米軍にとって大きく有利になりました。
5月下旬に32軍は首里の司令部を放棄し、摩文仁方面に撤退します。
その後、6月23日に第32軍司令官の牛島中将は自決し、沖縄での日本軍の組織的戦闘は終結します。
八原大佐は米軍の捕虜となり、後に本土に復員しました。
もし、5月4日の総攻撃が無ければ、第32軍は戦力をわざわざすり潰すこともなく、首里の司令部を8月の終戦まで維持できていた可能性があります。
そうなれば、首里以南の非戦闘員は日米の凄絶な地上戦に巻き込まれることはなく、多大な犠牲を出すことはなかったはずです。
沖縄戦の評価
沖縄戦では、日本軍の兵力は、牛島中将率いる第32軍が約86,400名だったのに対し、米軍の兵力は、バックナー中将率いる第10軍が約238,700名と、米軍が日本軍の3倍近い戦力となっていました。
この圧倒的な戦力の米軍を、日本軍は82日間にわたって苦しめました。
沖縄戦では、沖縄出身軍人軍属が約28,000名、他都道府県出身者が約66,000名、一般県民は約94,000名が犠牲となりました。
それに対して米軍の戦死者は約12,500名、戦傷者は約36,000名~55,000名、戦闘外傷病者が約26,000名といわれています。
米陸軍戦史「最後の戦い」では、「沖縄における日本軍は、まことに優秀な計画と善謀をもって、我が進攻に立ち向かった」と記述しています。
また、軍事史家のハンソン・ボールドウィンも、「アイスバーグ作戦(沖縄作戦)の全貌」のなかで、「太平洋戦争中の日本軍で、最もよく戦ったのは、沖縄防衛部隊であった」と称賛しています。
八原大佐の考案した戦略持久によって米軍に多大な出血を強いたことは、米国の最高指導者層に衝撃を与え、次に予定されている日本本土決戦では、さらに多くの米兵の生命を失うことを予見させました。
その結果、これ以上の出血を恐れたトルーマン大統領の政治的判断によって、ポツダム宣言における日本の降伏条件は緩和されました。
天皇制の存続については明記しなかったのです。
このことは、日本側の和平勢力にとって、主戦派の軍部に対しての大きな説得材料となりました。
ポツダム宣言には天皇制の存続については明記されていない、つまり、「降伏しても天皇制は守られる」と解釈して、主戦派を説得したのです。
もし、ポツダム宣言に「天皇制を廃止する」と明記されていたら、本土決戦は避けられなかったかもしれません。
八原大佐の考案した戦略持久の方針により第32軍が健闘したことで、本土決戦を回避することができたともいえるのです。
まとめ
軍隊でも企業でも、指導者が最もしてはいないことは、同調圧力に屈して無謀な方策を実行することです。
ましてや、現場を知らない指導者が机上の空論を振りかざし、現場を混乱させるなどもってのほかです。
そのような指導者に対して敢然と立ち向かったのが、八原大佐だったのです。
強力な同調圧力が支配していた日本陸軍という組織において、現実をしっかりと見極め、合理的に最善の策を考えていく八原大佐のような人物がいたことを、日本人としてもっと知っておくべきだと思います。
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